私の娘は、
「場面緘黙症」だ。
例えば、家や昔からの慣れ親しんだ一部の人とは普通に会話をするけど、
それ以外の人に声を出すことができない。
それは、保育園時代からで、
「人見知り」や「恥ずかしがり屋」
とはまた違うものがあった。
場面緘黙症は、不安症の一つであると言う。
普段の生活の中でも、
同じ家の中で私が居なくなると
すぐに、大声で呼び、私を探す。
1人で普通にスタートができない事。
それは例えば、新一年生として1人で学校に行く事や、普通に遊んでくる〜と言って1人で家のお庭で遊ぶこととか。
必ず、私と一緒にが求められる。
だから、やっぱり、引っ越してきてからも、
学校では、一言も喋れない現状がある。
それは、挨拶はもちろんのこと、誰かの問いかけに対しても声で応答ができない。
それに伴う人間関係。友達関係。
今朝、私も一緒に学校に行ってる小2の女の子から、
「なんで話さないの?私のこと嫌い?」と聞かれる。
当然の反応だ。
娘もよく私に、
「なんで、みんなあんなに声出せるの?
私、出せないんだよね。」と言う。
だけど、入学以来、
一度も学校や学童に行き渋ることなく、
彼女は、淡々と通っている。
雰囲気がいいのか、周りの子も優しいのか、
私はそれを、極楽寺の神様の計らいだと思ってる。
学童の心温かい職員さん達は、
「彼女のがんばりですよ。本当に頑張っていますよ。」と言う。
だけど、最近、日々、何かしらで場面緘黙によって起こる些細な人間模様にも疲れたのであろう。私は、
まだ一年生だから、たまたまの今なのでは。
これから、本人の成長と共に二次的な問題に繋がっていくのでは。不登校やひきこもりとか、、
と先々の心配を過剰にしている。
心配しすぎて、最近、寝てばかりだ。
現実逃避に昼寝は最高。
何かこう、予感的なもので、
もしかしたら、娘は、
王道コースでは行けないのではないかな。。
と感じる。
でも心配すると共に、
例えば、普通の学校が無理になったら、
それはそれで、別の世界を探すの、大いにアリだなと思ってたりもする。
現に参加してみたいものもいくつかある。
学び場は、他にもある。
それは、とても勇気のいる、世間とは違う道を行く大冒険だ。
まだまだまだ、私の中でも「普通」であることへの「安心」は拭えない。
だってさ。楽なのがいいじゃん。って思う。
当たり前に溢れてる、なんの苦労もなく学校生活できちゃう子達。
ハッシュタグに#学校大好き
とか、ふつーに入れる多数派部族たち。
こんなに考えずにすむんだなー
いいよなーとも思う。
だって。自分でない人の事を悩むほど
無謀で難解な事ってないじゃない。
何か過去に原因が、、
なんて自分を責めがちになるじゃない。
でも、そんなんも意味ないじゃない。
だけど、
子供の症状は親へのメッセージだと言う。
この状況を見ながら
私は私になんて声をかけてあげたいか。
もっというと、
私が、すげー尊敬しちゃうあの人だったら
私になんて声かけてあげたい?
★★★
「いいじゃん、人にどう思われたって。
自分だけの世界でいいんだよ。」
「私さえ堂々とやりたいように輝いてたらそれでいいんだ。」
そして、具体的にまた、
場面緘黙症への対応みたいなこともあるので
それも踏まえて、科学的数学的スピリチュアルでいきたいなとも思ってる。
以前にお世話になった保育士さんのことば。
「ほっておいては、だめで。手を差し出しあとは待ちながら、笑いながら。」
それは、本当に本当に高度だけれど。
私は、娘がいなければ、この鎌倉に引っ越してくる事もなかった。
不思議な関係である。
昨日、娘が言った言葉で印象的なことがあって。
「地球にね、びゅーーーんって降りてきたときね、その時の気持ち、すっごく嬉しくてたまらなかった。」
って言葉。
そっか。嬉しくて嬉しくてわくわくしながら来たんだな。
ふふふ。だけど、想像以上にこの地球は凄かったから、緘黙で心を調整してるのかもな。